東山魁夷展へ行ってきました。#1
京都から無事帰京。(帰京って、京都にも使えるのか・・?)Anyway, 無事に帰ってきました。
2泊3日、名古屋と京都の旅。親友と義父義母に会ってたくさん話して愛情とエネルギーをたくさんいただきました。感謝と感動で胸がいっぱいです。
かつ、今日は義父の提案で、京都国立近代美術館で開催されていた、東山魁夷展〜本当の「あお」に出会う〜へ行ってきました(お義父さんありがとうございます!)
ここでは東山魁夷さんの作品を見た感動を、色褪せないうちに記したいと思います。
東山さんの代表作のうちの一つに「道」があります。(実物は、ネット画像よりもっと長く長く続く道に見えました)この作品では、音声ガイドの中に東山さんの肉声も入っています。
”この作品は、戦後間も無くして描きました。
(中略)このみちは、行き先の分からない未来にも見えるし、
過去に見える時が私にはあります。誰にもこの先がどうなるか分からない。
けれども、
根底に純粋な気持ちを持つことが大事なのではないでしょうか。
私も、この作品を書いたときは純粋な時期だったと思います。
そして常に初心を忘れず、
新しい感激を持って生きることが
大切なのではないかと思うのです”
あくまでも、私の記憶による内容なので一語一句その通りではありませんが、私はこの音声を聞いた時ハッとしました。根底に純粋な気持ちを持って初心を忘れず、新しい感激を持って生きること。今一番私ができていないこと、と痛感。。。。と共に、プロフェッショナルと言われる人たちの共通ワードと気が付いたからです。かつ、言い方がとても謙虚。何度も何度も再生し、響いた言葉をメモに残していました。
入場してものの10分で「道」に出会い、感嘆と自分への落胆にさいなまれながら続いて見たのが、「秋翳」。こちらは肉声ではなく解説でした。
”三角形の山を描くことを決めたものの、
その通りの形を見つけることができなかった魁夷。
そのため、様々な山々をかき集め完成させたと言います。
描き上げたあと、不思議なことに魁夷は、
このような山をよく目にするようになったと言っていました”
自分のイメージで描くこともおそらくできたであろうに、常に本物の自然と対峙し、描き続ける東山さんのプロフェッショナルさを感じてまた感動。
余談ですが、私は6歳から12歳くらいまでピアノを習っていたのですが、その頃に「守破離」という言葉を聞いて妙に納得したことがあります。
譜面通りに弾かなくても、自分の感情に合わせてフォルテにしたりピアニッシモにしたり、ペダルを踏んだり離したり。それで心地よく弾いていた時がありました。しかし、録音して聴いてみるととてもうるさく、全く響いてこないんですね。
大人しく譜面通りに弾いてみると、これは驚き。非常に耳に入りやすい。
さらに継続して練習したのち、感情をちょこっとだけ乗せると先生から「素晴らしい!」のお言葉が。
ナレーションも全く同じなのですが、なんでもイメージや自己流でやっても、満足するのはその時の自分だけ。本物と言われる人は常に客観的に本物と対峙をし鍛錬をしている。
そのことを彷彿させる作品でした。
(#2に続く)